1997年、Time-Lifeマガジンは、過去1000年における最も重要な発明に印刷機を選んだ。人間が4時間以内でロンドンからニューヨークに飛んだり、宇宙飛行士が月でゴルフをするのを見た1000年間の中で、それはかなり名誉あることである。
しかし、印刷機はマスコミに可能性を与えたのだ。それは本を手ごろな価格にし、文学を多くの人にもたらした。社会の発展を助け、長い歴史を持つ階級性を屈服させた。印刷された文字は、情報時代への大きな革命的一歩の到来を告げたのだ。
ヨハネス・グーテンベルクは恐らく知らなかっただろう。自分がこの世界を永遠に変えてしまったということを。彼が15世紀中頃に印刷機を発明した時、彼は、本、取扱説明書、マニュアル、定期刊行物、そしてもちろんのこと新聞のために道を開いたのだ。
そして、500年以上が経った今、印刷機はついにライバルに出会ったようである。
年季の入った活動家が、反応が早く艶やかな若い成り上がり者に直面する。西部劇のワンシーンのようだが、それは実際に、ジャーナリズムという高貴な芸術が現在直面している危うい苦境なのだ。
昔からの専門的職業が、新しい種類のジャーナリストからの脅威にさらされている。そこそこのスマートフォンとTwitterアカウントを装備した彼らは至る所に存在し、主要ニュース記事の現場に瞬時に駆けつけることができる。実際には、彼らはそのニュースが起きる前でさえそこにいるのが普通なのだ。
Twitterと市民ジャーナリズムについては多く書かれてきた。否定的なものもあれば、肯定的なものもあるが、ほとんど全てが、ソーシャルメディアがジャーナリズムを永遠に変えたということについては同意している。そして、この問題が取り上げられるときはいつも、具体的な緊張関係が生じる―古いものが新しいものに、アナログがデジタルに、ソーシャルメディアのせいで質素な新聞紙がそのメーカーに直面するのだ。
それと戦う意味はあるのだろうか?もちろんない。市民ジャーナリストに勝つ可能性はないのだ。彼らは数の面で有利なのだ。文字通り、彼らは全ての場所に存在する。それに、なぜ戦いたいというのか?それは、良いことでしかないのだ。
ジャーナリスト―資格のある人―は、全てのツールを意のままに使わなければならない。そしてそれには、ソーシャルメディアと、ソーシャルの場で作ることができる無数のコンタクトが含まれるのだ。
プロのジャーナリストは常に、大衆に絶大な影響力を持っている。彼らは訓練を受けていて、適切に事実確認する方法や自分の所に入ってきた情報が正当であることを確認する方法を知っている。それは、全ての際立った細部を大衆が消化できるような物語形式に組み立てつつも、フィクションと事実を区別する粘り強さと客観性に依存する厳格な専門的職業である。このことに失敗しているジャーナリストの例は数え切れないほどあるが、少なくとも彼らには自分が書いたことへの責任がある。ソーシャルでの多くとは違って…
匿名性の壁の裏にある市民ジャーナリズムは、信頼度を保証することは決してない。Twitterは間違った情報を、本当のジャーナリストがそのかすかな匂いさえも得る前に、7つ全ての大陸に広めることができる。このように情報はソーシャルメディアを介して正当化されるようになり、書かれたことの誤りに対する責任は誰にもないのだ。それは、基本的にはボリュームを上げた噂話なのだ。
もちろん、多くの市民ジャーナリストが‘偶然のジャーナリスト’である。例えば、201年1月、南アフリカのGregg Coppenは、ケープタウン近くの海で巨大なサメが人を食べるのを目撃した。彼はつぶやいた:『なんてことだ。たった今、うちの前で巨大なサメが人間のように見える何かを食べる所を見た…サメは巨大だった。恐竜くらい。』
彼のツイートは世界中のトップ記事となった。凄惨な出来事を目撃した後に彼がとっさに送った130文字を基に、Coppenは多くの国のテレビやラジオのインタビューを受けた。
ソーシャルメディアは、ジャーナリストが利用できる恐ろしくパワフルなツールである。それを無視するよりも生かす方が適切だ。そんなわけで、ジャーナリズムは敏感で現代的感覚のある技術的な社会のあらゆる場所で変化についていくように進化しなければならないのだ。
従来ジャーナリストは、正確な内部情報や専門家の意見を得るために頼りにしているコンタクトを書いた小さな黒い手帳を持っていた。ソーシャルメディアでは、異なるネットワーキングの階層を形作っている。ジャーナリストは、どのTwitterコンタクトが信頼できるのか時間をかけて知り、それに従って関係を築く。それは従来の方法と全く違っているわけではなく、ただコミュニケーションに使用するツールが異なるというだけだ。そして、Twitterがそのツールになっているのだ。
同様に、Googleがジャーナリズムの崩壊の原因であると非難されてきた。しかし、Googleがしていることと言えば、コンテンツを集め、ユーザーが求めているニュースにユーザーを導くということにつきる。新しいメディアの世界から成功者を選び、指をさして非難することは簡単だ。
一部の人達が主張するように、新しいメディアがジャーナリズムを壊しているのではない。それは、単に新しい種類の記者に異なる方法で働くことを余儀なくさせているだけだ。
世界的に大きな出来事が起きた時には、多くの人々が、その状況に近い人達からニュースを得ようとしてTwitterやFacebookに殺到する。私達は日本で起きた地震と津波でそれを目にした。しかし、それと同時に、何百万もの人々が、その出来事に関する実際に裏付けされた事実を求めてBBCのウェブサイトに押し寄せた。
さらに、これらのジャーナリストの多くは、ソーシャルの場で自分が知っていて信頼する人からの情報を収集するだろう。日本の現場にいる仲間のジャーナリストからは言うまでもない。質の高いジャーナリズムは死んでなんかいないのだ、ただ進化しているのだ。
新聞紙の売上げは落ちている。情報を無料で欲しがる人もいるが、アプリの使用や有料コンテンツの壁を回避するために定期購読することに喜んでお金を支払う人たちもいる。今でもクオリティには価値があり、人々はそれにお金を支払う意思がある。
しかし、ジャーナリズムは、出版物というより、1人の人間としてのジャーナリストにますますなっていくだろう。そして、そうなってくると、ジャーナリストは自身でブランドを築かなければならない。
ブログやソーシャルメディアによって動かされことによって、ジャーナリストは自分達自身にパーソナルブランドを築かなければならないだろう。彼らは、人々が信頼するようになる、巧みで当てになるアクセスしやすいパッケージを作らなければならない。この‘個人的信頼’モデルは、署名入りの記事という形で常に存在してきたが、ソーシャルメディアでジャーナリストのブランディングの必要性がこれまで以上に高まっている。
ソーシャルメディアは、人々と繋がることが全てだ。これらの人々との間で形作る人間関係は信頼によって決まるため、これらの新しいツールを自分の有利になるように利用するならば、ジャーナリストの役割はもっと個人的でなければならない。
これまでニュース業界は寡占だったし、あらゆる意味で今もそんなようなものだ。しかし、亀裂が見え始め、ウェブがニュースと情報を流すための開渠を作った。それは良いことであるべきなのだ。
常にジャーナリストの必要性はあり続けるだろうし、彼らは異なる状況下で異なる方法で働かなければならないだろう。新しいメディア?それはすなわち、新しいジャーナリズムなのだ。
この記事は、The Next Webに掲載された「From Gutenberg to Google: New media? New journalism.」を翻訳した内容です。
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